月の裏側 1/7


 
ふるさとは遠くにあって思うものらしい。

弟「遠いから少しは優しくなれるのかもしれない」
母「自分の周りには、新たな些細なものが溢れているから」

どうでもよくなるのかも。

弟「余計なものが遠くに霞んで」
母「大事なものだけが見えるのかもしれない」

それでも、一旦近寄れば。

弟「些細なものがまた溢れて広がって」
母「きっとまた同じことを思う」

ふるさとは遠くにあって思うもの。

弟「変わっていくことから目を背けて」
母「いつか後悔することにも蓋をして」

見えない月の裏側も、
本当はそこにあることを私はちゃんと知っている。



月の裏側


それは『いつも』の繰り返し。

何度『うん』と『はーい』と『じゃあね』と『切るよ』を言えばいいのだろう。

公平にあほって伝えて。
そう言ったら、やっと笑って話が途切れた。

その隙間に、私はまた4つの単語を詰め込んで電話を切った。
心の奥底からため息が漏れる。
携帯の通話時間は1時間20分を過ぎている。

こっちから掛けた訳じゃないから、料金の心配はしなくていいのだけど。

それにしても、『いつも』話が長い。
私はほとんど聞いてただけ。
8割以上向こうのお喋り。

そして、話に内容が無い。

何の話をしてたのかすら、
覚えてないってどういうことだ?

記憶の糸を手繰ってみると…

そうだ。
隣の鮫島さん家のネコがいなくなったんだ。
それだってたいして珍しいことじゃない。
しょっちゅう。
ほとんど毎日。
1年に330日くらい。
で、何もなかったようにネコは帰ってくる。

ほとんどの人は、
それを『散歩』と呼ぶ。

散歩中のネコを探すほど、
ムダなことがあるのだろうか?

鮫島さん曰く、旦那さんが亡くなってからは、
ネコが唯一の家族とのことだ。
大事な大事な1人息子とのことだ。

それなのに、
ネコに名前をつけてない。

鮫島さんはネコを『ネコ』と呼ぶ。
『ネコ』はネコだと正論ぽく喋る。

意味が解らない。

その度に合ってない入れ歯がカクカクと揺れ、
他人を不安な気分にさせる。

『ネコ! ネコや!』と。
散歩中のネコを追う鮫島さんを、
1年に330日くらい見かける。

地元を離れて随分になるが、
未だに追いかけているようだ。

そのうち帰ってくるのに。

なぜか数年前から、
母さんもネコを見かけると捕まえようとしている。

ムダにムダを重ねている。
なぜかは聞かない。
聞いたって、さらにムダを重ねるだけだ。

ん? それがどうやったら1時間20分になる?

ネコの話なんて最初の何分かだけだ。
それに、私に聞いたところで解る訳もない。

何の話をした?
違う。
聞いてた?

記憶の糸を手繰ってみると。

公平か。
うん。公平だ。

弟「で? 姉ちゃんは元気にやってんの?」

母さんは無言で公平を見ている。

弟「なんか付いてる? 母ちゃん?」
母「あほ」
弟「なっ?」
母「『伝えろ』って。さやかが」
弟「それは伝えなくてもいい『伝えろ』だぞ」
母「…忘れた」
弟「は?」
母「元気なのか、聞くの忘れた」
弟「ボケた?」

母さんは手元にあったみかんを投げた。
公平は上手いことよけたが、はずみで柱に肩をぶつけた。
それを見て、母さんは満足そうに笑った。

弟「痛。…っていうか、何の為に電話かけたのよ?」
母「まあ、さやかも何にも言ってなかったし。聞かなかったし。病気なら病気っていうだろ?だから、まあ、なんだよ。またそのうち」
弟「いいのか? そのうちで。明日だろうが?」
母「大きなお荷物が、偉そうに母親に説教すんじゃねえよ!」

そういって、またみかんを投げる…フリをした。
みかんは投げなかったが、公平はまた柱にぶつかった。

弟「痛。…肩と …心と …拳が痛い」

それは『いつも』の繰り返し。

今と昔と未来の真ん中で。

私は知らないフリをする。


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月の裏側 2/7



7つ下の弟。
公平はかわいかった。

昔は。
過去だ。遠い過去。
だいたい小学1年生くらいまで。


本当にかわいかった。
鼻が垂れてても、目やにがどっちゃりでも愛せた。
短パンからパンツがはみ出しててもかわいかった。
むしろ、それがかわいかった。


別に、ひいき目に見てって話でもない。

小さい頃はおかっぱ頭にしていたので、
よく女の子と間違えられていた。


母さんはそれがおもしろかったのか、
微妙な感じの服を公平に着せたがった。


男の子かなー?
女の子かなー?


周りが判断しかねるぐらいの微妙さ。

自分の息子で、
他人にトラップをしかけて楽しんでいた。

でも、それくらい公平はかわいかった。
私にとっても。

そんな気持ちが変わったのは、
公平が小学2年生の時だ。


スポーツ刈りにした頃。

あろうことか、
私のタンスの中にどでかいカエルを入れやがった。
しかも、下着を入れる引き出しに。


私の中からかわいい公平は跡形もなく消えさり、
冗談のセンスもカケラもないガキに成り下がった。

弟「引きガエ…

言わさない。

ぶっとばした後、
あいつを家の前の田んぼに落としてやった。


男の子がかわいい期間は、
残念ながら短い。


どこの弟も、
そんなものなのかな?

そう言えば、
公平が小学校に上がる前だっただろうか。


まだ、おかっぱの頃。

真夜中。

私の布団に潜り込んできたことがあった。
しかも、足元から。

それが公平だと解らなかったので、
恐怖で2・3度蹴った。


弟「痛。…僕」

公平のうめき声。

いつもはそういう時、
父さんの布団に潜り込む子だったからちょっと驚いた。


ごめんね。

そう言うが返事はなく、
代わりに私の左手の小指を握ってきた。

顔は見なかったから解らないが、
たぶん泣いていたのだろう。


そのまま、
2人とも黙っていた。


真っ暗な部屋。

ときどき、
鼻をすする音が響く。

しばらくして、
あらためて聞いてみた。


すると、
変な夢を見たと言う。


父さんと母さんが、
離れて暮らすことになる夢。


弟「母ちゃんが一緒に行こうって手をひっぱるんだ」

震える声。

弟「父ちゃんは。何も言わない。ただこっちを見てて。母ちゃんがぐいぐい引っ張って。僕は父ちゃんを見てる。父ちゃんはなんか優しい顔してて。だからね。ずっと見てた。父ちゃん。でもね。姉ちゃん。母ちゃんの手も温かいんだよ」

小指を強く握ってきた。

弟「選べないよ」

だから、私の布団にきた。

初めて。

選べないから。

姉の布団に。

きっと、いつか見たドラマか何かのせいだろう。

公平はじっと私の足元にいた。
朝までじっと。

私の小指を握りながら。

余談だけど、
その夢は正夢にはならなかった。


私の布団に入ってきたのも、
それが最初で最後。

やがて、かわいくなくなり。
誰かの布団に潜り込むこともなくなり。


何年か経ち、
思春期を迎えた頃。

父さんがこの世を去った。

公平は、
それからずっと母さんと暮らしている。


ちょっと違う経緯ではあるけれど、
あの夢のようになったのだと思っていた。


最近までずっと。

でも、違った。
そうじゃなかったのだと気がついた。

たぶん、母さんじゃない。

公平が母さんの手を握っていたのだと思う。

父さんを見ている母さんの手を、
一緒に行こうって握っていたのだ。


あの夜。

布団の中で、
私の小指を握っていたように。


公平は母さんを放さなかった。


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月の裏側 3/7



かわいくない公平。

弟「何で、鮫島さんのネコの話から、俺がバイト首になった話に飛ぶんだよ。しかも、何の脈絡も無く」
母「さあ?」
弟「電話して3分も経ってなかったぞ。そのままネコの話どっかいっちゃうし」
母「盗み聞き」
弟「は?」
母「盗み聞きなんて、盗人のする事だよ」
弟「聞こえる距離なんだよ。家が狭いから」
母「お前が無駄にでかくなっただけ」
弟「無駄に?」
母「勿体無い。元気なのに。身体を持て余してる。勿体無い」
弟「うるさい!」
母「悔しかったら家賃を入れなさい。人として」

公平の顔が一瞬で仏像のようになった。
半開きの目の奥から光が消える。

母「そのうち帰ってくるでしょ」
弟「は?」
母「そのうち」
弟「何が?」
母「は?」
弟「は?」
母「カチカチか? 頭。若いのに。カチカチか? だからクビになるのか。カチカチクビだ。チクビだ」
弟「略し方!」

若いのに頭がカチカチの公平は今年25歳。
最近、フリーターからニートになった。

バイト先のレンタルビデオ屋で、エロいDVDを延滞3ヶ月して金を払わずに済まそうとした客を…

ぶん殴ったらしい。

拳で。

クビで済んでよかった。
逮捕されなかっただけましだ。

弟「姉ちゃんは昔、田舎ヤンキーと付き合っていた」

は?

弟「そいつに影響されて、髪は内側にぐるんぐるん。妙に長いスカートを履いていた」

殴るよ!

弟「殴りに帰ってくるのか? 帰ってこれるのか?」

もう2年は実家に帰ってない。
理由を挙げればたくさんある。

仕事が忙しい。
遠いし、田舎だし。
日帰りもできない。

電車は1時間に1本だし。タクシーのことを皆ハイヤーって言ってるし。

駅の前に牛舎があるし。
地元の名産品がバッタだし。

母「イナゴ」

冬は寒いし。
人が隠れるくらい雪は降るし。

母「イナゴ」

電車のドアは、
冬の間自動じゃなくて手動になるし。

母「イナゴの佃煮!」

勝手に入ってくるな!

その辺からこっちは入ってくるな。
距離舐めんな。地図舐めんな。時差舐めんな。

弟「時差は関係ない」

お前も入ってくるな。
換気扇の前でハイライトでも吸ってろ。

弟「違うよ」

ん?

弟「今はマルボロ」

変えたの?

弟「ハイライトは母ちゃん」

は?

弟「俺と一緒に、換気扇前ハイライトで発泡酒だよ」

母さん?
禁煙はどうしたの?

母「…」

母さん?

母「こっちからそっちは入ってくるな。そっちからこっち系で全て賄え」
弟「意味解らん」
母「お前なんか生んだ覚えない」
弟「悔し紛れにとんでもない事言ってんじゃないぞ。ちゃんと覚えてろよ。こっちは覚えてないんだから」

誤解を恐れず言おう。

母さんという人間は、
一般社会で言えば・・・

割とダメな方の人だ。

これでもまだオブラートに包んでいる。

言動はがさつだし、
親らしいことは一切しない。

ただ、妙に人を油断させる。

くしゃっと笑う顔のせいなのか、
よく通る笑い声のせいなのか。

油断させ、好かれる。

だから、
上手いこと渡ってこれた人。

そんな人。

そして、父さんがいたから。

母さんは、
母さんでいられたのだと思う。

 
 
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