月の裏側 1/7


 
ふるさとは遠くにあって思うものらしい。

弟「遠いから少しは優しくなれるのかもしれない」
母「自分の周りには、新たな些細なものが溢れているから」

どうでもよくなるのかも。

弟「余計なものが遠くに霞んで」
母「大事なものだけが見えるのかもしれない」

それでも、一旦近寄れば。

弟「些細なものがまた溢れて広がって」
母「きっとまた同じことを思う」

ふるさとは遠くにあって思うもの。

弟「変わっていくことから目を背けて」
母「いつか後悔することにも蓋をして」

見えない月の裏側も、
本当はそこにあることを私はちゃんと知っている。



月の裏側


それは『いつも』の繰り返し。

何度『うん』と『はーい』と『じゃあね』と『切るよ』を言えばいいのだろう。

公平にあほって伝えて。
そう言ったら、やっと笑って話が途切れた。

その隙間に、私はまた4つの単語を詰め込んで電話を切った。
心の奥底からため息が漏れる。
携帯の通話時間は1時間20分を過ぎている。

こっちから掛けた訳じゃないから、料金の心配はしなくていいのだけど。

それにしても、『いつも』話が長い。
私はほとんど聞いてただけ。
8割以上向こうのお喋り。

そして、話に内容が無い。

何の話をしてたのかすら、
覚えてないってどういうことだ?

記憶の糸を手繰ってみると…

そうだ。
隣の鮫島さん家のネコがいなくなったんだ。
それだってたいして珍しいことじゃない。
しょっちゅう。
ほとんど毎日。
1年に330日くらい。
で、何もなかったようにネコは帰ってくる。

ほとんどの人は、
それを『散歩』と呼ぶ。

散歩中のネコを探すほど、
ムダなことがあるのだろうか?

鮫島さん曰く、旦那さんが亡くなってからは、
ネコが唯一の家族とのことだ。
大事な大事な1人息子とのことだ。

それなのに、
ネコに名前をつけてない。

鮫島さんはネコを『ネコ』と呼ぶ。
『ネコ』はネコだと正論ぽく喋る。

意味が解らない。

その度に合ってない入れ歯がカクカクと揺れ、
他人を不安な気分にさせる。

『ネコ! ネコや!』と。
散歩中のネコを追う鮫島さんを、
1年に330日くらい見かける。

地元を離れて随分になるが、
未だに追いかけているようだ。

そのうち帰ってくるのに。

なぜか数年前から、
母さんもネコを見かけると捕まえようとしている。

ムダにムダを重ねている。
なぜかは聞かない。
聞いたって、さらにムダを重ねるだけだ。

ん? それがどうやったら1時間20分になる?

ネコの話なんて最初の何分かだけだ。
それに、私に聞いたところで解る訳もない。

何の話をした?
違う。
聞いてた?

記憶の糸を手繰ってみると。

公平か。
うん。公平だ。

弟「で? 姉ちゃんは元気にやってんの?」

母さんは無言で公平を見ている。

弟「なんか付いてる? 母ちゃん?」
母「あほ」
弟「なっ?」
母「『伝えろ』って。さやかが」
弟「それは伝えなくてもいい『伝えろ』だぞ」
母「…忘れた」
弟「は?」
母「元気なのか、聞くの忘れた」
弟「ボケた?」

母さんは手元にあったみかんを投げた。
公平は上手いことよけたが、はずみで柱に肩をぶつけた。
それを見て、母さんは満足そうに笑った。

弟「痛。…っていうか、何の為に電話かけたのよ?」
母「まあ、さやかも何にも言ってなかったし。聞かなかったし。病気なら病気っていうだろ?だから、まあ、なんだよ。またそのうち」
弟「いいのか? そのうちで。明日だろうが?」
母「大きなお荷物が、偉そうに母親に説教すんじゃねえよ!」

そういって、またみかんを投げる…フリをした。
みかんは投げなかったが、公平はまた柱にぶつかった。

弟「痛。…肩と …心と …拳が痛い」

それは『いつも』の繰り返し。

今と昔と未来の真ん中で。

私は知らないフリをする。


月の裏側 2/7 へ

月の裏側 2/7



7つ下の弟。
公平はかわいかった。

昔は。
過去だ。遠い過去。
だいたい小学1年生くらいまで。


本当にかわいかった。
鼻が垂れてても、目やにがどっちゃりでも愛せた。
短パンからパンツがはみ出しててもかわいかった。
むしろ、それがかわいかった。


別に、ひいき目に見てって話でもない。

小さい頃はおかっぱ頭にしていたので、
よく女の子と間違えられていた。


母さんはそれがおもしろかったのか、
微妙な感じの服を公平に着せたがった。


男の子かなー?
女の子かなー?


周りが判断しかねるぐらいの微妙さ。

自分の息子で、
他人にトラップをしかけて楽しんでいた。

でも、それくらい公平はかわいかった。
私にとっても。

そんな気持ちが変わったのは、
公平が小学2年生の時だ。


スポーツ刈りにした頃。

あろうことか、
私のタンスの中にどでかいカエルを入れやがった。
しかも、下着を入れる引き出しに。


私の中からかわいい公平は跡形もなく消えさり、
冗談のセンスもカケラもないガキに成り下がった。

弟「引きガエ…

言わさない。

ぶっとばした後、
あいつを家の前の田んぼに落としてやった。


男の子がかわいい期間は、
残念ながら短い。


どこの弟も、
そんなものなのかな?

そう言えば、
公平が小学校に上がる前だっただろうか。


まだ、おかっぱの頃。

真夜中。

私の布団に潜り込んできたことがあった。
しかも、足元から。

それが公平だと解らなかったので、
恐怖で2・3度蹴った。


弟「痛。…僕」

公平のうめき声。

いつもはそういう時、
父さんの布団に潜り込む子だったからちょっと驚いた。


ごめんね。

そう言うが返事はなく、
代わりに私の左手の小指を握ってきた。

顔は見なかったから解らないが、
たぶん泣いていたのだろう。


そのまま、
2人とも黙っていた。


真っ暗な部屋。

ときどき、
鼻をすする音が響く。

しばらくして、
あらためて聞いてみた。


すると、
変な夢を見たと言う。


父さんと母さんが、
離れて暮らすことになる夢。


弟「母ちゃんが一緒に行こうって手をひっぱるんだ」

震える声。

弟「父ちゃんは。何も言わない。ただこっちを見てて。母ちゃんがぐいぐい引っ張って。僕は父ちゃんを見てる。父ちゃんはなんか優しい顔してて。だからね。ずっと見てた。父ちゃん。でもね。姉ちゃん。母ちゃんの手も温かいんだよ」

小指を強く握ってきた。

弟「選べないよ」

だから、私の布団にきた。

初めて。

選べないから。

姉の布団に。

きっと、いつか見たドラマか何かのせいだろう。

公平はじっと私の足元にいた。
朝までじっと。

私の小指を握りながら。

余談だけど、
その夢は正夢にはならなかった。


私の布団に入ってきたのも、
それが最初で最後。

やがて、かわいくなくなり。
誰かの布団に潜り込むこともなくなり。


何年か経ち、
思春期を迎えた頃。

父さんがこの世を去った。

公平は、
それからずっと母さんと暮らしている。


ちょっと違う経緯ではあるけれど、
あの夢のようになったのだと思っていた。


最近までずっと。

でも、違った。
そうじゃなかったのだと気がついた。

たぶん、母さんじゃない。

公平が母さんの手を握っていたのだと思う。

父さんを見ている母さんの手を、
一緒に行こうって握っていたのだ。


あの夜。

布団の中で、
私の小指を握っていたように。


公平は母さんを放さなかった。


月の裏側 3/7へ

月の裏側 3/7



かわいくない公平。

弟「何で、鮫島さんのネコの話から、俺がバイト首になった話に飛ぶんだよ。しかも、何の脈絡も無く」
母「さあ?」
弟「電話して3分も経ってなかったぞ。そのままネコの話どっかいっちゃうし」
母「盗み聞き」
弟「は?」
母「盗み聞きなんて、盗人のする事だよ」
弟「聞こえる距離なんだよ。家が狭いから」
母「お前が無駄にでかくなっただけ」
弟「無駄に?」
母「勿体無い。元気なのに。身体を持て余してる。勿体無い」
弟「うるさい!」
母「悔しかったら家賃を入れなさい。人として」

公平の顔が一瞬で仏像のようになった。
半開きの目の奥から光が消える。

母「そのうち帰ってくるでしょ」
弟「は?」
母「そのうち」
弟「何が?」
母「は?」
弟「は?」
母「カチカチか? 頭。若いのに。カチカチか? だからクビになるのか。カチカチクビだ。チクビだ」
弟「略し方!」

若いのに頭がカチカチの公平は今年25歳。
最近、フリーターからニートになった。

バイト先のレンタルビデオ屋で、エロいDVDを延滞3ヶ月して金を払わずに済まそうとした客を…

ぶん殴ったらしい。

拳で。

クビで済んでよかった。
逮捕されなかっただけましだ。

弟「姉ちゃんは昔、田舎ヤンキーと付き合っていた」

は?

弟「そいつに影響されて、髪は内側にぐるんぐるん。妙に長いスカートを履いていた」

殴るよ!

弟「殴りに帰ってくるのか? 帰ってこれるのか?」

もう2年は実家に帰ってない。
理由を挙げればたくさんある。

仕事が忙しい。
遠いし、田舎だし。
日帰りもできない。

電車は1時間に1本だし。タクシーのことを皆ハイヤーって言ってるし。

駅の前に牛舎があるし。
地元の名産品がバッタだし。

母「イナゴ」

冬は寒いし。
人が隠れるくらい雪は降るし。

母「イナゴ」

電車のドアは、
冬の間自動じゃなくて手動になるし。

母「イナゴの佃煮!」

勝手に入ってくるな!

その辺からこっちは入ってくるな。
距離舐めんな。地図舐めんな。時差舐めんな。

弟「時差は関係ない」

お前も入ってくるな。
換気扇の前でハイライトでも吸ってろ。

弟「違うよ」

ん?

弟「今はマルボロ」

変えたの?

弟「ハイライトは母ちゃん」

は?

弟「俺と一緒に、換気扇前ハイライトで発泡酒だよ」

母さん?
禁煙はどうしたの?

母「…」

母さん?

母「こっちからそっちは入ってくるな。そっちからこっち系で全て賄え」
弟「意味解らん」
母「お前なんか生んだ覚えない」
弟「悔し紛れにとんでもない事言ってんじゃないぞ。ちゃんと覚えてろよ。こっちは覚えてないんだから」

誤解を恐れず言おう。

母さんという人間は、
一般社会で言えば・・・

割とダメな方の人だ。

これでもまだオブラートに包んでいる。

言動はがさつだし、
親らしいことは一切しない。

ただ、妙に人を油断させる。

くしゃっと笑う顔のせいなのか、
よく通る笑い声のせいなのか。

油断させ、好かれる。

だから、
上手いこと渡ってこれた人。

そんな人。

そして、父さんがいたから。

母さんは、
母さんでいられたのだと思う。

 
 
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月の裏側 4/7



そんな人の母さん。

14年前に、父さんは肺癌で死んだ。

父さんはまだ若かったしタバコも吸わなかったから、
親戚は母さんを責めた。

母さんはそれ以来、月1ペースで禁煙をしている。

一応、良心はあるようだ。
でも、それっきり親戚付き合いはなくなった。

母「今日はどこのコンビニにしようか?」
弟「あ?」
母「この時間じゃねえ。スーパー黄金屋はしまっちゃったしね」
弟「長電話してんじゃないよ。それに、コンビニ。この近くに1軒しかないだろうが」
母「座光寺の先に」
弟「3キロ。あっこまで3キロあるから」
母「じゃあ、いつもの所で」

母さんは電話台の引き出しから、
500円玉を取り出し公平に放り投げた。

弟「カネを投げんな。…多分、足りねえ」
母「頼んだ」
弟「ニートたかってんじゃねえぞ」
母「パートなめんな」
弟「意味解んねえ」
母「お前が出て行ったところで、私は痛くも痒くも」
弟「行ってきます」

公平は母さんと暮らしている。

でもそれは自分の意思ではなく、
1人暮らしするスキルがないだけかもしれない。

母さんの息子。
そういうことなのかもしれない。

母さんはキッチンでタバコを吸っている。
他の部屋じゃ吸わない。
換気扇の前だけ。

それでも…

父さんの葬式の時、
母さんは親戚に睨まれながらつぶやいた。

母「…家が狭いから?」

私の目線に気づくと、
くしゃっと笑った。

いつだっただろうか?

黄色いピースから、
ハイライトにしたことを報告されたことがある。
自慢げに。

あんまり変わってないことを母さんは解ってない。
母「ん? 鮫島さん?」

ん?

母「ネコ?」

母さんは勝手口から飛び出していった。

どっち?
どこ行くの?

どこ…
これは現実?
それとも記憶?

想像?

どれでもいいのかな?

どうでもいいのか。

母さんは、
父さんに何にもしなかった。

料理も洗濯も掃除も。
それでも父さんは何も言わなかった。

何も言わずに、
全部父さんがやった。

一番風呂も母さんだったし、
新聞も一番に読んだ。

父さんはただ微笑んでいた。

微笑んで風呂の掃除をして、
新聞のお金を払っていた。

1つだけ。
たった1つだけ。

タバコはキッチンで。
黒く汚れた換気扇の前でだけ。

それが優しさかどうかは解らないけど、
母さんの思いは届かなかったって事なのだろうか。

正直。

あの家にあんまりいい思い出はない。

私にも公平にもお袋の味はないし、
勉強した覚えもない。

いつだってバラバラだった気がする。

父さんがいなくなってからは特に。

私たちを繋ぎとめる何かがなくなった。

あの頃は、家も母さんも嫌で嫌でしょうがなかったけど。

今思い返すとなんか懐かしい。

壊れた鳩時計も。
変な般若のお面も。
おじいちゃん達の写真も。
東京のおじさんの置いていった車も。

今も変わらないのだろうか?

確実に、私は変わった。

目の前にはビールの缶が2つ。
ここ数ヶ月体重計には乗っていない。

携帯には20分おきに元彼氏…

今のところ、
まだ彼氏からの着信。

キッチンをのぞくと母さんがいて、
白い煙が換気扇に消えていく。

父さんがいなくなってからかな。

その背中が、
ちょっと小さく見えるようになったのは。


月の裏側 5/7 へ

月の裏側 5/7



まだ彼氏。

彼「何か、太った?」

そう言えば、仕事場の同僚はほとんど嫁いでいった。
残ったのは私と45歳でバツイチのヒロミさん。

彼「太った?」

ヒロミさんは『もう男は要らない』と言っている。

彼「何か、会ってないうちに太った?」

私はまだ言えない。
言いたくはない。

彼「何か、何か、何か、太った?」

『何か』と『太った』しか言えないのか!?

彼「さやかが答えないから」

答えるわけないだろ!

『太った?』って聞かれて、
『うん、太った』って答えるのか!?

彼「答えてもいいやん」

まず、お前の電話には出てないからな。

彼「出ないねー」

出ないよ。

彼「俺、かけてるねー」

20分おきだよ。

彼「暇だねー 俺」

アキノリという男。

近所の隠れ家的な居酒屋で、
料理を作っている。

ちょっと軽くて、
わりともてる男。

それを解ってるから、
ちょっと性質が悪い。

まだ彼氏。

彼「…俺、暇なのかな?」

知らないよ。

彼「知らないの?」

知るわけないでしょ!

彼「病気とかだったらどうする?」

は?

彼「カゼひいたり」

自分で治せばいい。

ていうか、

お世話してくれそうな人いっぱいいるじゃない。

彼「俺はさやかに電話してるんけど」

だから…

彼「俺の気持ちって、どこに放置されてる?」

…どこだろう?

どこだか解らないけれど、
ちゃんと答えられそうにない。

どう答えても、
放置でしかないのだから。

彼「…出ないの?」

出ないよ。

彼「出ないねー」

なのに、
何で、
出てくる!

お前は!

彼「俺に聞く?」

は?

彼「俺に聞くなよ」

真剣な顔でこっちを見ている。

この人、
こんな顔してたっけ?

もう随分と会ってない。
ケンカしてどのくらいになるのだろう?
その前だって、そんなに頻繁に会ってたわけじゃない。

すれ違ったまま、
もう取り返しのつかないところにきている。

それは、
なんとなく解っているつもり。

違うか。

解ってはいるけど、
解らないフリをしている。

そういうことか。

誰かのせい…

たぶん、
アキノリのせいにして。


だから、出てくるのかな?

彼「出ないの?」

出してるのかな。

母「あーもう。あーもう」

母さんが玄関から戻ってきた。

そんなことするから、
いつもサンダルが玄関に溜まるのだ。

母「ネコめ。卑怯者め」

ネコだったようだ。

母「者じゃないか。卑怯・・・ネコ」

何だそれ。

母「塀の上ばっかり逃げんのよ」

何で追いかけてんの?

母「鮫島さんが探してるから」

そのうち帰って来るでしょ。

母「まあ、見かけたら捕まえるわよ。捕まえようとチャレンジするわよ。見かけたんだもの。捕まえたことないけど。いつか捕まえてやるわよ」

モチベーション高いね。

母「なのに、卑怯なのよ。逃げるのよ」

そりゃ追えば逃げるでしょ。

母「塀よ。塀」

知らないよ。
あのさ、名前付けたら。

母「ん?」

名前ないから呼んでも振り向かないんじゃ。

母「なるほどね」

いい加減に名前をつけてって、
鮫島さんに言いなよ。

母「アラン・ドロン」

渋い。

渋いけど母さんがつけたらダメでしょ?
鮫島さんのネコだから。

母「栄子」

それは鮫島さんの名前ね。

母「公平」

ネコに息子と同じ名前付けるのか?

母「じゃあ、勇平」

それは父さん。

身近な人の名前はやめなさい。
あとあと面倒になるから。

母「…勇平」

は?

母「いいね」

決定?

母「勇平って感じなのよ。あのネコ、父さんより勇平が似合う」

40年近く勇平でがんばったのに、
ネコに負けるなんて。

母さんは人の家のネコに、
父さんの名前をつけた。

あれはいつのことだっただろう?

いろいろ混じってるけど。
あの時、私はあそこにいた。

あの部屋で、
戻ってきた母さんを…

ちょっと軽蔑した目で見てたんだ。

ネコが勇平になった日。

私はまだあそこにいた。


月の裏側 6/7へ

月の裏側 6/7



ネコの勇平。

弟「あ? また玄関にサンダルが増えてる!」

公平が帰ってきたようだ。

弟「母ちゃん、サンダル」
母「私はサンダルじゃないよ」

公平は言うのをやめた。
ムダにムダを重ねるだけだ。

そして、
また仏像になった。

ムダなカロリーを消費しない手段なのか?

仏像のまま、
無言で袋を差し出した。

母「ちょっと運動したから腹も減って…っておい!」
弟「500円しか渡してないんだから文句言うなよ」
母「おにぎり4個って。うわっ、マヨネーズ系ばっかり。おかかとか梅干とか、おにぎりならおにぎりでバリエーション持たせなさいよ」
弟「それしかなかったの。文句あるなら自分で買いに行けよ」
母「罰として夕飯抜き。いや、おにぎり抜き」
弟「おいおい」
母「食べたかったら、勇平連れてきな」
弟「無理。あの世だもん」
母「そっちじゃなくて」
弟「そっち?」
母「ネコの方」

仏像の顔が歪む。

母「ネコの方」
弟「・・・つっこまねえ。ケガしそう」
母「成長?」
弟「いやいや」

母さんは袋からおにぎりを取り出し、
公平に向かって投げた。

思い切り。
2個まとめて。

それぞれ、
明後日の方角に飛んでいったおにぎりたち。

片方は何も入ってない花瓶をなぎ倒し、
もう片方は壁で豪快にクラッシュした。

弟「…バカなのか?」
母「バカだと?」

自分のおにぎりにも手をかけたが、
ちょっと考えて投げるのをやめた。

弟「…あのさ。母ちゃんはおにぎり食っていいのか?」
母「腹減ったもん」
弟「明日じゃなかった?」
母「何?」
弟「飲むんだろう?」
母「は?」
弟「カメラ」

母さんは解りやすく聞こえないフリをした。
聞いたことのない鼻歌を口ずさみながら。

弟「ちゃんと検査の紙読んどけよ。普通、前の日は食事抜くもんだぞ」
母「公平」
弟「ん?」
母「見逃してみないか?」
弟「無理。それでなくても、なんか数値的にどうたらだからどうとか。カメラ飲んどきましょうかー的な流れでなんとか」
母「解ってないだろ?」
弟「とにかく。だから。ちゃんとやろうよ」

聞いたことのない鼻歌がサビっぽくなり、
おにぎりの包みを開け始めた。

弟「こら! ちゃんと検査の紙読めって。どこおいたの? 寝室? 仏壇の前?」
母「…言うなよ」
弟「ん?」
母「解るだろ?」

かわいくない公平の頭は、
残念ながらカチカチだ。

弟「おにぎり食べたこと?」

母さんは深いため息をつく。
聞いたことのない鼻歌のエンディングとともに。

弟「違うの?」
母「寝室。たぶん仏壇」
弟「なんだよ。違うなら違うって言えよ。その鼻歌、何?」

おにぎりを拾いながら、
公平は寝室へむかった。

弟「…母ちゃん」

母さんは包みを開け終え、
のりを引っぱり出そうとしている。
 
弟「姉ちゃんには言え」

やっぱりカチカチだ。

弟「母ちゃんが言えないなら、俺から言うぞ」
母「言う必要ない」
弟「あるだろ。姉ちゃんは…」
母「なんだよ?」
弟「…姉ちゃんなんだから」
母「…何だそれ?」

私が家を出た日、
母さんは見送りにこなかった。

それでいいと思った。

公平は、
私からちょっと距離をおいて付いてきた。

駅のホームに立ってたら、
なんか涙が溢れてきた。

止まらなくなって、
私はずっと泣いていた。
 
あんなに嫌がってた家から出ていけるのに、
うれしい気持ちにはならなかった。

牛舎の匂いが漂うホームで、
公平の存在なんか忘れて大声で泣いていた。

きっとあの時の公平には、
私が何で泣いているのか解らなかっただろう。


弟「姉ちゃん」

ん?

弟「あの日。家に戻ったらさ」

うん。

弟「寝室から鼻をすする音が聞こえたんだよ」

初めて聞いた。

弟「もう怒れないからさ。言ってもいいっしょ」

怒られるよ。
あっち行ってから。

弟「まあ、だいぶ先だし」

覚えてないか。

弟「なんか、電車から泣きながら降りてきた姉ちゃん見てさ。あの日のこと思い出した」

景色がね。
変わってなさ過ぎて。

弟「変わんないよ。全く。嫌になるくらい。変わらない」

駅のホームで泣いたのは、
結局2回。

乗るときと、降りるとき。

年齢も違うし、
季節も違うけど。

私は泣いて、
公平は見ていた。

それは変わらない。

それも変わらない。


月の裏側 7/7へ

月の裏側 7/7



現実と記憶。
想像と…

妄想?

それは『いつも』の繰り返し。

鈍行列車の片隅で、
ロールプレイだってできてしまう。

母さんも公平も、
『いつも』こんな感じで。

こんな感じの距離感で。

よせばいいのに、
まだ彼氏も登場させたりするから…

お酒の力って恐ろしい。

もしも、これが記憶だとしたら。
私は何も失ってないということなのだろうか?

この世のどこにも存在しないけど、
『ある』ということなのだろうか?

だから、この喪失感は…

そう思えたら、
どれだけいいか。

でも、
私は知っている。

都合よく切り貼りしたって、
使わない部分を捨てることはできない。

結局。

別れは突然やってきて。
私の中を風が吹き抜けるみたいに奪っていく。

距離も地図も時差も。
関係なしに奪っていく。

そして、
また毎日は過ぎていく。

その隙間に居心地の悪さを感じながら、
やっぱり淡々と過ぎていく。

時間が経って。
日常になって。
いつしか隙間のことも忘れて。 

それでも時々。

頭の中で、
ふっと顔を出す。

あの頃みたいに。
『いつも』の感じで。

鼻の奥が、
少ししょっぱくなる感覚とともに。

だから、
知らないフリをする。

今と昔と未来の真ん中で。

現実と記憶と想像を、
切り取り貼ったコラージュにまぎれて。

私は知らないフリをする。


ふるさとは遠くにあって思うものらしい。

弟「遠いから少しは優しくなれるのかもしれない」
母「自分の周りには、新たな些細なものが溢れているから」

どうでもよくなるのかも。

弟「余計なものが遠くに霞んで」
母「大事なものだけが見えるのかもしれない」

それでも、一旦近寄れば。

弟「些細なものがまた溢れて広がって」
母「きっとまた同じことを思う」

ふるさとは遠くにあって思うもの。

弟「変わっていくことから目を背けて」
母「いつか後悔することにも蓋をして」

見えない月の裏側も、
本当はそこにあることを私はちゃんと知っている。

母「見えない月の裏側で、勇平は見ている」
弟「ネコの?」
母「ネコかもしれないし、ネコじゃないほうかもしれないし」

ネコじゃないほうって。

母「そう思うと寂しくないだろう?」

そう言って母さんは笑った。

弟「見えないから」

でも、そこにはあるから。

弟「思うのは自由だから」

信じるのも自由だから。

母「そう思うと寂しくないだろう?」

そう言って母さんは笑った。


弟「この写真」

うん。

弟「まさに母ちゃんって感じ」

父さんのお墓の前で、
くしゃっと笑う母さんの写真。

父さんの何回目かの命日。

弟「全くさ。何が楽しいんだか」

その場所には似つかわしくない笑顔が、
母さんには似合ってたまらない。

私も公平も迷うことなく、
これを遺影にしようと決めた。

2年ぶりの実家は、
本当に何も変わっていなかった。


壊れた鳩時計も、
変な般若のお面も、
おじいちゃん達の写真も。
東京のおじさんの置いていった車も。


変わらずそこにあった。

だけど、
違う気がした。


ここじゃない。


そんな気がした。

家は母さんの友達で溢れてて、
私も公平もただ座ってるだけ。


それなのに、
いろんなことがあっという間に片付いていった。

いや、片付けてもらった。

ありがたいことだ。

どうやら私は、
母さんに似てきたらしい。


生き写しだと泣く人までいた。
肩をバンバン叩かれた。

いろいろな人にあいさつをして、
母さんの話をした。


相変わらずで、
相変わらず過ぎて。


笑った。

私も公平も、
腹筋が痛くなるほど笑った。

私たちの周りには、
母さんを愛する人たちが溢れていた。


そして誰もが、
私たちの中の母さんを見ていた。


係の人が言うには、
1時間半ほどかかるという。


火葬場を出たら、
雪が降っていた。


私は公平と並んで空を見上げた。

雪の隙間を煙が昇っていく。

弟「母ちゃんもあそこかな?」

そうなんじゃない?

きっと…


弟「勇平もいるしね」

私が笑うと、
公平も笑った。


そうか。

遠くにあって思うもの。

弟「確かに」

ん?

弟「寂しくはないね」

そう言うと、
公平はハイライトに火をつけた。


月の裏側
おしまい