熱じゃないということは…
七 「幻だと思ったわよ。私だって。ああ、疲れてるんだなって。毎日、毎日、パソコンに向かって。毎日、毎日、人のお金計算してたら。こんなに疲れるんだなって」
強めに膝を叩く。
七 「幻見るぐらい疲れてるんだなって。やっぱり仕事やめて正解だったなって。再就職大変かもだけど、これでよかったのかもなって。だって、こんな幻見るくらい疲れてたんだなって。…でも、ほら、これが…」
七、CD-R を掲げる。
中 「七は CD を手に入れた」
永世「だから、ゲームか?」
中と七、永世を見る。
永世「…なんで、俺を見る?」
中 「どういうことだろう?」
永世「なんで、俺に聞く?」
七 「お姉ちゃん。解らない」
中 「お姉ちゃんの彼氏も解らない」
いわゆる、
ムチャぶりというヤツである。
しかし、永世にとっては自分の才能…
趣味趣向を披露する、
絶好の機会を手に入れたということでもある。
そして、永世はそんな数年に1度あるかないかの機会を…
ずっと待っている男だったりするのである。
永世「…もしかして」
七 「きたきた」
中 「もしかして?」
永世「タイムマシンかも」
ここで話は個室の外へ。
店 「…何事か?」
七の他にも、
現実を理解できていない人間がもう1人いる。
店 「…何事か?」
そう。
ここ蛮臥廊の店主である。
厨房にて得盛りセットの肉を切りながら、
個室から出入りする人間を見ていた男。
48歳。
愛する妻と娘が1人。
炭火焼に。
そして、肉の鮮度に命をかける男。
その男の頭の中に…
とても美しい明朝体の、
クエスチョンマークが浮かんでいるのである。
肉なんか切ってる場合ではないのである。
みるみる鮮度が落ちていく肉のことすら、
目に入らないほどの立派なクエスチョン。
店 「何事か?」
口癖を呪文のように繰り返している。
頭の中ではつじつまをあわせようと、
さまざまな想像が…
店 「双子なのか? いやいや、よく来るお客さんだし。そんな話したことないな。したことない…」
ぶんぶんと首を振る。
店 「姉妹? いや、似すぎだろ。…いやいや、似すぎだろ」
自分で2度否定してみる。
店 「て、ことは… 何事か?」
ちょっと整理してみようとする。
店 「個室には男女3人いた。いた。」
自分で2度確認する。
自分のことが少し疑わしくなっているのかもしれない。
店 「男が出ていって、男が出ていって。…女が入った」
この女は、
最初の女と同じ顔をした女である。
店 「個室の中から『お断りよ!』という叫び声がして」
七イズム。
店 「女が出てくる。会釈される。会釈を返す。そしたら、男が戻ってきて。男が戻ってきて… 耳を澄ますと個室から女の声がしている」
店主の首が、
ぐいっと右に傾く。
店 「あの女は会釈して帰ったはず…なのに」
右耳が肩につきそうだ。
その前に首が折れてしまわないだろうか?
店 「何事か?」
でた、『何事か?』。
店 「どういうことだ? あれは誰だ? 何事か? 出ていかなかったのか? いや、いったわ。何事か? じゃあ、個室にいるのは? …服が違うか?」
肉を切る手は止まっている。
疑問は疑問のまま、
肉の鮮度だけが落ちていく。
店主は自分の頬を叩いてみた。
全く痛くない。
もう1度叩いてみた。
やっぱり痛くない。
店 「なんだ夢か」
店主は少しほっとした。
店 「夢じゃしょうがない。何事でもない。ああ、びっくりした」
なんの気なしに包丁の刃を触ってみる。
手入れされた包丁は、
店主の人差し指の皮をさっくりと切った。
店 「ほら、痛く… 痛い。いたーい」
皮の隙間から、
赤いものが溢れてくる。
店 「血が、血が…」
あわててキッチンペーパーをとる店主。
店 「痛い。ってことは夢じゃない。…あれ?」
もう1度、
頬を叩いてみる。
ちょっと強めに。
店 「痛い。 …俺め。さっきは加減してたのか」
無意識の自分への優しさに振り回され、
見なくてもよかった血を見る店主。
自分のバカさ加減のその向こう…
さらに美しく、
さらに大きくなっていく明朝体。
そして、
鮮度は落ちていく。
物語は始まらない。
これはまだプロローグ。