7つ下の弟。
公平はかわいかった。
昔は。
過去だ。遠い過去。
だいたい小学1年生くらいまで。
本当にかわいかった。
鼻が垂れてても、目やにがどっちゃりでも愛せた。
短パンからパンツがはみ出しててもかわいかった。
むしろ、それがかわいかった。
別に、ひいき目に見てって話でもない。
小さい頃はおかっぱ頭にしていたので、
よく女の子と間違えられていた。
母さんはそれがおもしろかったのか、
微妙な感じの服を公平に着せたがった。
男の子かなー?
女の子かなー?
周りが判断しかねるぐらいの微妙さ。
自分の息子で、
他人にトラップをしかけて楽しんでいた。
でも、それくらい公平はかわいかった。
私にとっても。
そんな気持ちが変わったのは、
公平が小学2年生の時だ。
スポーツ刈りにした頃。
あろうことか、
私のタンスの中にどでかいカエルを入れやがった。
しかも、下着を入れる引き出しに。
私の中からかわいい公平は跡形もなく消えさり、
冗談のセンスもカケラもないガキに成り下がった。
弟「引きガエ…」
言わさない。
ぶっとばした後、
あいつを家の前の田んぼに落としてやった。
男の子がかわいい期間は、
残念ながら短い。
どこの弟も、
そんなものなのかな?
そう言えば、
公平が小学校に上がる前だっただろうか。
まだ、おかっぱの頃。
真夜中。
私の布団に潜り込んできたことがあった。
しかも、足元から。
それが公平だと解らなかったので、
恐怖で2・3度蹴った。
弟「痛。…僕」
公平のうめき声。
いつもはそういう時、
父さんの布団に潜り込む子だったからちょっと驚いた。
ごめんね。
そう言うが返事はなく、
代わりに私の左手の小指を握ってきた。
顔は見なかったから解らないが、
たぶん泣いていたのだろう。
そのまま、
2人とも黙っていた。
真っ暗な部屋。
ときどき、
鼻をすする音が響く。
しばらくして、
あらためて聞いてみた。
すると、
変な夢を見たと言う。
父さんと母さんが、
離れて暮らすことになる夢。
弟「母ちゃんが一緒に行こうって手をひっぱるんだ」
震える声。
弟「父ちゃんは。何も言わない。ただこっちを見てて。母ちゃんがぐいぐい引っ張って。僕は父ちゃんを見てる。父ちゃんはなんか優しい顔してて。だからね。ずっと見てた。父ちゃん。でもね。姉ちゃん。母ちゃんの手も温かいんだよ」
小指を強く握ってきた。
弟「選べないよ」
だから、私の布団にきた。
初めて。
選べないから。
姉の布団に。
きっと、いつか見たドラマか何かのせいだろう。
公平はじっと私の足元にいた。
朝までじっと。
私の小指を握りながら。
余談だけど、
その夢は正夢にはならなかった。
私の布団に入ってきたのも、
それが最初で最後。
やがて、かわいくなくなり。
誰かの布団に潜り込むこともなくなり。
何年か経ち、
思春期を迎えた頃。
父さんがこの世を去った。
公平は、
それからずっと母さんと暮らしている。
ちょっと違う経緯ではあるけれど、
あの夢のようになったのだと思っていた。
最近までずっと。
でも、違った。
そうじゃなかったのだと気がついた。
たぶん、母さんじゃない。
公平が母さんの手を握っていたのだと思う。
父さんを見ている母さんの手を、
一緒に行こうって握っていたのだ。
あの夜。
布団の中で、
私の小指を握っていたように。
公平は母さんを放さなかった。
月の裏側 3/7へ
かわいくない公平。
弟「何で、鮫島さんのネコの話から、俺がバイト首になった話に飛ぶんだよ。しかも、何の脈絡も無く」
母「さあ?」
弟「電話して3分も経ってなかったぞ。そのままネコの話どっかいっちゃうし」
母「盗み聞き」
弟「は?」
母「盗み聞きなんて、盗人のする事だよ」
弟「聞こえる距離なんだよ。家が狭いから」
母「お前が無駄にでかくなっただけ」
弟「無駄に?」
母「勿体無い。元気なのに。身体を持て余してる。勿体無い」
弟「うるさい!」
母「悔しかったら家賃を入れなさい。人として」
公平の顔が一瞬で仏像のようになった。
半開きの目の奥から光が消える。
母「そのうち帰ってくるでしょ」
弟「は?」
母「そのうち」
弟「何が?」
母「は?」
弟「は?」
母「カチカチか? 頭。若いのに。カチカチか? だからクビになるのか。カチカチクビだ。チクビだ」
弟「略し方!」
若いのに頭がカチカチの公平は今年25歳。
最近、フリーターからニートになった。
バイト先のレンタルビデオ屋で、エロいDVDを延滞3ヶ月して金を払わずに済まそうとした客を…
ぶん殴ったらしい。
拳で。
クビで済んでよかった。
逮捕されなかっただけましだ。
弟「姉ちゃんは昔、田舎ヤンキーと付き合っていた」
は?
弟「そいつに影響されて、髪は内側にぐるんぐるん。妙に長いスカートを履いていた」
殴るよ!
弟「殴りに帰ってくるのか? 帰ってこれるのか?」
もう2年は実家に帰ってない。
理由を挙げればたくさんある。
仕事が忙しい。
遠いし、田舎だし。
日帰りもできない。
電車は1時間に1本だし。タクシーのことを皆ハイヤーって言ってるし。
駅の前に牛舎があるし。
地元の名産品がバッタだし。
母「イナゴ」
冬は寒いし。
人が隠れるくらい雪は降るし。
母「イナゴ」
電車のドアは、
冬の間自動じゃなくて手動になるし。
母「イナゴの佃煮!」
勝手に入ってくるな!
その辺からこっちは入ってくるな。
距離舐めんな。地図舐めんな。時差舐めんな。
弟「時差は関係ない」
お前も入ってくるな。
換気扇の前でハイライトでも吸ってろ。
弟「違うよ」
ん?
弟「今はマルボロ」
変えたの?
弟「ハイライトは母ちゃん」
は?
弟「俺と一緒に、換気扇前ハイライトで発泡酒だよ」
母さん?
禁煙はどうしたの?
母「…」
母さん?
母「こっちからそっちは入ってくるな。そっちからこっち系で全て賄え」
弟「意味解らん」
母「お前なんか生んだ覚えない」
弟「悔し紛れにとんでもない事言ってんじゃないぞ。ちゃんと覚えてろよ。こっちは覚えてないんだから」
誤解を恐れず言おう。
母さんという人間は、
一般社会で言えば・・・
割とダメな方の人だ。
これでもまだオブラートに包んでいる。
言動はがさつだし、
親らしいことは一切しない。
ただ、妙に人を油断させる。
くしゃっと笑う顔のせいなのか、
よく通る笑い声のせいなのか。
油断させ、好かれる。
だから、
上手いこと渡ってこれた人。
そんな人。
そして、父さんがいたから。
母さんは、
母さんでいられたのだと思う。
月の裏側 4/7へ
そんな人の母さん。
14年前に、父さんは肺癌で死んだ。
父さんはまだ若かったしタバコも吸わなかったから、
親戚は母さんを責めた。
母さんはそれ以来、月1ペースで禁煙をしている。
一応、良心はあるようだ。
でも、それっきり親戚付き合いはなくなった。
母「今日はどこのコンビニにしようか?」
弟「あ?」
母「この時間じゃねえ。スーパー黄金屋はしまっちゃったしね」
弟「長電話してんじゃないよ。それに、コンビニ。この近くに1軒しかないだろうが」
母「座光寺の先に」
弟「3キロ。あっこまで3キロあるから」
母「じゃあ、いつもの所で」
母さんは電話台の引き出しから、
500円玉を取り出し公平に放り投げた。
弟「カネを投げんな。…多分、足りねえ」
母「頼んだ」
弟「ニートたかってんじゃねえぞ」
母「パートなめんな」
弟「意味解んねえ」
母「お前が出て行ったところで、私は痛くも痒くも」
弟「行ってきます」
公平は母さんと暮らしている。
でもそれは自分の意思ではなく、
1人暮らしするスキルがないだけかもしれない。
母さんの息子。
そういうことなのかもしれない。
母さんはキッチンでタバコを吸っている。
他の部屋じゃ吸わない。
換気扇の前だけ。
それでも…
父さんの葬式の時、
母さんは親戚に睨まれながらつぶやいた。
母「…家が狭いから?」
私の目線に気づくと、
くしゃっと笑った。
いつだっただろうか?
黄色いピースから、
ハイライトにしたことを報告されたことがある。
自慢げに。
あんまり変わってないことを母さんは解ってない。
母「ん? 鮫島さん?」
ん?
母「ネコ?」
母さんは勝手口から飛び出していった。
どっち?
どこ行くの?
どこ…
これは現実?
それとも記憶?
想像?
どれでもいいのかな?
どうでもいいのか。
母さんは、
父さんに何にもしなかった。
料理も洗濯も掃除も。
それでも父さんは何も言わなかった。
何も言わずに、
全部父さんがやった。
一番風呂も母さんだったし、
新聞も一番に読んだ。
父さんはただ微笑んでいた。
微笑んで風呂の掃除をして、
新聞のお金を払っていた。
1つだけ。
たった1つだけ。
タバコはキッチンで。
黒く汚れた換気扇の前でだけ。
それが優しさかどうかは解らないけど、
母さんの思いは届かなかったって事なのだろうか。
正直。
あの家にあんまりいい思い出はない。
私にも公平にもお袋の味はないし、
勉強した覚えもない。
いつだってバラバラだった気がする。
父さんがいなくなってからは特に。
私たちを繋ぎとめる何かがなくなった。
あの頃は、家も母さんも嫌で嫌でしょうがなかったけど。
今思い返すとなんか懐かしい。
壊れた鳩時計も。
変な般若のお面も。
おじいちゃん達の写真も。
東京のおじさんの置いていった車も。
今も変わらないのだろうか?
確実に、私は変わった。
目の前にはビールの缶が2つ。
ここ数ヶ月体重計には乗っていない。
携帯には20分おきに元彼氏…
今のところ、
まだ彼氏からの着信。
キッチンをのぞくと母さんがいて、
白い煙が換気扇に消えていく。
父さんがいなくなってからかな。
その背中が、
ちょっと小さく見えるようになったのは。
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