月の裏側 2/7



7つ下の弟。
公平はかわいかった。

昔は。
過去だ。遠い過去。
だいたい小学1年生くらいまで。


本当にかわいかった。
鼻が垂れてても、目やにがどっちゃりでも愛せた。
短パンからパンツがはみ出しててもかわいかった。
むしろ、それがかわいかった。


別に、ひいき目に見てって話でもない。

小さい頃はおかっぱ頭にしていたので、
よく女の子と間違えられていた。


母さんはそれがおもしろかったのか、
微妙な感じの服を公平に着せたがった。


男の子かなー?
女の子かなー?


周りが判断しかねるぐらいの微妙さ。

自分の息子で、
他人にトラップをしかけて楽しんでいた。

でも、それくらい公平はかわいかった。
私にとっても。

そんな気持ちが変わったのは、
公平が小学2年生の時だ。


スポーツ刈りにした頃。

あろうことか、
私のタンスの中にどでかいカエルを入れやがった。
しかも、下着を入れる引き出しに。


私の中からかわいい公平は跡形もなく消えさり、
冗談のセンスもカケラもないガキに成り下がった。

弟「引きガエ…

言わさない。

ぶっとばした後、
あいつを家の前の田んぼに落としてやった。


男の子がかわいい期間は、
残念ながら短い。


どこの弟も、
そんなものなのかな?

そう言えば、
公平が小学校に上がる前だっただろうか。


まだ、おかっぱの頃。

真夜中。

私の布団に潜り込んできたことがあった。
しかも、足元から。

それが公平だと解らなかったので、
恐怖で2・3度蹴った。


弟「痛。…僕」

公平のうめき声。

いつもはそういう時、
父さんの布団に潜り込む子だったからちょっと驚いた。


ごめんね。

そう言うが返事はなく、
代わりに私の左手の小指を握ってきた。

顔は見なかったから解らないが、
たぶん泣いていたのだろう。


そのまま、
2人とも黙っていた。


真っ暗な部屋。

ときどき、
鼻をすする音が響く。

しばらくして、
あらためて聞いてみた。


すると、
変な夢を見たと言う。


父さんと母さんが、
離れて暮らすことになる夢。


弟「母ちゃんが一緒に行こうって手をひっぱるんだ」

震える声。

弟「父ちゃんは。何も言わない。ただこっちを見てて。母ちゃんがぐいぐい引っ張って。僕は父ちゃんを見てる。父ちゃんはなんか優しい顔してて。だからね。ずっと見てた。父ちゃん。でもね。姉ちゃん。母ちゃんの手も温かいんだよ」

小指を強く握ってきた。

弟「選べないよ」

だから、私の布団にきた。

初めて。

選べないから。

姉の布団に。

きっと、いつか見たドラマか何かのせいだろう。

公平はじっと私の足元にいた。
朝までじっと。

私の小指を握りながら。

余談だけど、
その夢は正夢にはならなかった。


私の布団に入ってきたのも、
それが最初で最後。

やがて、かわいくなくなり。
誰かの布団に潜り込むこともなくなり。


何年か経ち、
思春期を迎えた頃。

父さんがこの世を去った。

公平は、
それからずっと母さんと暮らしている。


ちょっと違う経緯ではあるけれど、
あの夢のようになったのだと思っていた。


最近までずっと。

でも、違った。
そうじゃなかったのだと気がついた。

たぶん、母さんじゃない。

公平が母さんの手を握っていたのだと思う。

父さんを見ている母さんの手を、
一緒に行こうって握っていたのだ。


あの夜。

布団の中で、
私の小指を握っていたように。


公平は母さんを放さなかった。


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月の裏側 3/7



かわいくない公平。

弟「何で、鮫島さんのネコの話から、俺がバイト首になった話に飛ぶんだよ。しかも、何の脈絡も無く」
母「さあ?」
弟「電話して3分も経ってなかったぞ。そのままネコの話どっかいっちゃうし」
母「盗み聞き」
弟「は?」
母「盗み聞きなんて、盗人のする事だよ」
弟「聞こえる距離なんだよ。家が狭いから」
母「お前が無駄にでかくなっただけ」
弟「無駄に?」
母「勿体無い。元気なのに。身体を持て余してる。勿体無い」
弟「うるさい!」
母「悔しかったら家賃を入れなさい。人として」

公平の顔が一瞬で仏像のようになった。
半開きの目の奥から光が消える。

母「そのうち帰ってくるでしょ」
弟「は?」
母「そのうち」
弟「何が?」
母「は?」
弟「は?」
母「カチカチか? 頭。若いのに。カチカチか? だからクビになるのか。カチカチクビだ。チクビだ」
弟「略し方!」

若いのに頭がカチカチの公平は今年25歳。
最近、フリーターからニートになった。

バイト先のレンタルビデオ屋で、エロいDVDを延滞3ヶ月して金を払わずに済まそうとした客を…

ぶん殴ったらしい。

拳で。

クビで済んでよかった。
逮捕されなかっただけましだ。

弟「姉ちゃんは昔、田舎ヤンキーと付き合っていた」

は?

弟「そいつに影響されて、髪は内側にぐるんぐるん。妙に長いスカートを履いていた」

殴るよ!

弟「殴りに帰ってくるのか? 帰ってこれるのか?」

もう2年は実家に帰ってない。
理由を挙げればたくさんある。

仕事が忙しい。
遠いし、田舎だし。
日帰りもできない。

電車は1時間に1本だし。タクシーのことを皆ハイヤーって言ってるし。

駅の前に牛舎があるし。
地元の名産品がバッタだし。

母「イナゴ」

冬は寒いし。
人が隠れるくらい雪は降るし。

母「イナゴ」

電車のドアは、
冬の間自動じゃなくて手動になるし。

母「イナゴの佃煮!」

勝手に入ってくるな!

その辺からこっちは入ってくるな。
距離舐めんな。地図舐めんな。時差舐めんな。

弟「時差は関係ない」

お前も入ってくるな。
換気扇の前でハイライトでも吸ってろ。

弟「違うよ」

ん?

弟「今はマルボロ」

変えたの?

弟「ハイライトは母ちゃん」

は?

弟「俺と一緒に、換気扇前ハイライトで発泡酒だよ」

母さん?
禁煙はどうしたの?

母「…」

母さん?

母「こっちからそっちは入ってくるな。そっちからこっち系で全て賄え」
弟「意味解らん」
母「お前なんか生んだ覚えない」
弟「悔し紛れにとんでもない事言ってんじゃないぞ。ちゃんと覚えてろよ。こっちは覚えてないんだから」

誤解を恐れず言おう。

母さんという人間は、
一般社会で言えば・・・

割とダメな方の人だ。

これでもまだオブラートに包んでいる。

言動はがさつだし、
親らしいことは一切しない。

ただ、妙に人を油断させる。

くしゃっと笑う顔のせいなのか、
よく通る笑い声のせいなのか。

油断させ、好かれる。

だから、
上手いこと渡ってこれた人。

そんな人。

そして、父さんがいたから。

母さんは、
母さんでいられたのだと思う。

 
 
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月の裏側 4/7



そんな人の母さん。

14年前に、父さんは肺癌で死んだ。

父さんはまだ若かったしタバコも吸わなかったから、
親戚は母さんを責めた。

母さんはそれ以来、月1ペースで禁煙をしている。

一応、良心はあるようだ。
でも、それっきり親戚付き合いはなくなった。

母「今日はどこのコンビニにしようか?」
弟「あ?」
母「この時間じゃねえ。スーパー黄金屋はしまっちゃったしね」
弟「長電話してんじゃないよ。それに、コンビニ。この近くに1軒しかないだろうが」
母「座光寺の先に」
弟「3キロ。あっこまで3キロあるから」
母「じゃあ、いつもの所で」

母さんは電話台の引き出しから、
500円玉を取り出し公平に放り投げた。

弟「カネを投げんな。…多分、足りねえ」
母「頼んだ」
弟「ニートたかってんじゃねえぞ」
母「パートなめんな」
弟「意味解んねえ」
母「お前が出て行ったところで、私は痛くも痒くも」
弟「行ってきます」

公平は母さんと暮らしている。

でもそれは自分の意思ではなく、
1人暮らしするスキルがないだけかもしれない。

母さんの息子。
そういうことなのかもしれない。

母さんはキッチンでタバコを吸っている。
他の部屋じゃ吸わない。
換気扇の前だけ。

それでも…

父さんの葬式の時、
母さんは親戚に睨まれながらつぶやいた。

母「…家が狭いから?」

私の目線に気づくと、
くしゃっと笑った。

いつだっただろうか?

黄色いピースから、
ハイライトにしたことを報告されたことがある。
自慢げに。

あんまり変わってないことを母さんは解ってない。
母「ん? 鮫島さん?」

ん?

母「ネコ?」

母さんは勝手口から飛び出していった。

どっち?
どこ行くの?

どこ…
これは現実?
それとも記憶?

想像?

どれでもいいのかな?

どうでもいいのか。

母さんは、
父さんに何にもしなかった。

料理も洗濯も掃除も。
それでも父さんは何も言わなかった。

何も言わずに、
全部父さんがやった。

一番風呂も母さんだったし、
新聞も一番に読んだ。

父さんはただ微笑んでいた。

微笑んで風呂の掃除をして、
新聞のお金を払っていた。

1つだけ。
たった1つだけ。

タバコはキッチンで。
黒く汚れた換気扇の前でだけ。

それが優しさかどうかは解らないけど、
母さんの思いは届かなかったって事なのだろうか。

正直。

あの家にあんまりいい思い出はない。

私にも公平にもお袋の味はないし、
勉強した覚えもない。

いつだってバラバラだった気がする。

父さんがいなくなってからは特に。

私たちを繋ぎとめる何かがなくなった。

あの頃は、家も母さんも嫌で嫌でしょうがなかったけど。

今思い返すとなんか懐かしい。

壊れた鳩時計も。
変な般若のお面も。
おじいちゃん達の写真も。
東京のおじさんの置いていった車も。

今も変わらないのだろうか?

確実に、私は変わった。

目の前にはビールの缶が2つ。
ここ数ヶ月体重計には乗っていない。

携帯には20分おきに元彼氏…

今のところ、
まだ彼氏からの着信。

キッチンをのぞくと母さんがいて、
白い煙が換気扇に消えていく。

父さんがいなくなってからかな。

その背中が、
ちょっと小さく見えるようになったのは。


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