誰かが言っていた。
今というヤツは、たった数秒のことらしい。
その前は過去で、その先は未来。
そういうことらしい。
でも、人間は今にしかいられない。
なぜなら、過去には戻れないし。
数秒後の未来は、そのときの自分にとっては今なのだから。
結局、今を生きている。
たった数秒の今。
そして、誰にも解らない。
未来がどうなるのか。
そこで自分がどうなっているのか。
もしかしたら、
世界はとんでもなく変わってしまうかもしれない…
もしかしたら、
自分がその変わってしまった世界の救世主なのかもしれない…
それは、誰にも解らない。
物語は始まらない。
これはまだプロローグ。
炭火焼の店「番臥廊(バンガロー)」の個室。
テーブルの中央に火鉢がセットされ、
その上には網が敷かれている。
天井では換気扇がぐるぐる回っている。
女が座っている。
女の名は七(ナナ)。
七は呆然と座っている。
男が個室に入ってくる。
携帯を手に。
男の名は中(アタル)。
七の彼氏。
中 「…お前がしまったファイルの場所なんか知るか」
七 「あ?」
中 「課長。自分でしまったファイルの場所忘れたんだと。『見てないか?』だって」
七 「ああ」
中 「そんなことで、休日中の部下に電話してくんなって話だよ」
1人足りない。
中 「…あれ? 永世は?」
七 「トイレ」
七は呆然と座っている。
視線は定まらず、ちょっと口が開いている。
中 「…どうしたの?」
七 「…は?」
中 「何?」
七 「何が?」
中 「何で魂抜けてるの?」
七 「…え? ああ」
中 「ん?」
七は手に CD-R を持っている。
それに気づいた中。
中 「何それ?」
七 「…ん? …ああああ!!」
中 「ああああ!! って何? 恐いやん」
七 「持ってる」
中 「何? CD ?」
七 「データ」
中 「データ?」
七 「らしい」
中 「らしい?」
七 「ファイル」
中 「ファイル?」
七 「らしい」
中 「らしい? ずいぶん曖昧だな」
男が個室に入ってくる。
男の名は永世(エイセイ)。
七の弟。
永世「…狭いな」
中 「ん? …トイレ?」
永世「いや、世界」
中 「…そう」
永世「もう頼んだ?」
中 「まだ。…だよね?」
七 「…ん?」
中 「メニュー注文した?」
七 「…まだ」
永世「フワフワしてるな」
七 「ん?」
永世「ここにあらず」
中 「永世は決めたの?」
永世「まだ。でも、あれは頼んだんでしょ? 得盛りセット」
中 「うん」
永世「じゃあ、サラダとか…」
永世、メニューを見る。
七は相変わらず魂が抜けている。
中 「…七?」
七 「ん?」
中 「どうしたの?」
七 「…信じないと思うよ」
中 「何が?」
七 「言っても」
永世「何の話?」
中 「これ」
中、CD-R を指差す。
永世「何それ?」
七 「…ん? …ああああ!!」
永世「ああああ!! って何? 恐いやん」
七 「持ってる」
永世「何? CD ?」
七 「データ」
永世「データ?」
七 「らしい」
永世「らしい?」
七 「ファイル」
永世「ファイル?」
七 「らしい」
永世「らしい? ずいぶん曖昧だな」
七 「ああああ!!」
永世「ああああ!! って何?」
七 「デジャブ?」
七の目は、泳ぎまくっている。
中 「いいや。リピート」
七 「なんだ、リピートか」
古式泳法ぐらいには落ち着く。
永世「何? 全然、解らない」
中 「俺も解んない」
永世「…中の彼女だろ。この人」
中 「…永世の姉さんだろ。この人」
永世「そうだけど」
中 「そうだけど」
2人とも答えのない会話だと気づく。
中 「…どうしたの?」
七、水を飲む。
ちょっと口の端からこぼれたが構う様子などない。
七 「…驚かないでね」
中 「了解」
七 「信じてね」
永世「了解」
七 「私は、いたってまともだからね」
中 「了解」
永世「了解」
七 「…私」
その目はしっかりと開かれている。
曇りのない黒目。
中も永世も、真剣に聞いている。
七 「私に会った!」
天井では換気扇がぐるぐる回っている。
その音だけが個室に響いている。
中も永世も、
時間が止まったかのように動かない。
七 「…え?」
予想外の無音に耐え切れなかったのは、
その空気を生み出した張本人。
七 「…はい?」
物語は始まらない。
これはまだプロローグ。